Interview
「ニューヨークのストリートミュージシャンとして苦節10年」
――ニューヨークから帰国して一年。一周年記念ライブの準備に忙しい高木さんにお話をうかがった。それは苦節10年という言葉がぴったりの波乱に満ちたミュージシャン人生だった。
音楽仲間に僕の音楽修行の話をすると、驚かれることが多いですね。幼い頃から楽器の練習に明け暮れてきた普通のプロ・ミュージシャンに比べると、とにかくスタートが遅かった。なにしろ初めて楽器というものに触れたのは、大学生になってからでしたので。
僕は関西人でして、大阪の枚方市で育ちました。こう見えても結構マジメな少年で、受験勉強なぞを一生懸命にやっていた。ですから音楽は聴くのが専門。父親がジャズ系のレコードをけっこう持っていたので、その影響があったのかも知れません。中校生の頃にハマったのはフュージョン。ボブ・ジェームズ(作編曲、キーボード)とか、映画音楽でも活躍していたラロ・シフリン(作編曲)、デイヴィド・サンボーン(サックス)あたりが好きでしたね。いま思うとCTIレーベルが多かった。
大学に入学して、すっかり解放されてしまったのか、やはり自分でも楽器をやりたくなりました。まず門を叩いたのはブラスバンド部。サンボーンに憧れていたので、アルト・サックスをやりたかったのですが、空きがないということでテナーに。で、始めてみて感じたのが、とにかくみんな上手いということ。中学生くらいからみっちりブラバンをやってきたメンバーばかりで、こりゃあアカンと思った。そこで、人手が足りなさそうな軽音楽部のジャズバンドに移りました。でも、正真正銘の初心者でしたから、来る日も来る日もロングトーンとかの基礎練習ばかり。ちっともカタチになりませんでしたね。
大学を卒業し、大阪に戻って来て就職。でも、楽器をやめることは出来ずに、藤ジャズスクールで教えていらした宮哲之さん(テナーサックス、アロージャズオーケストラ所属等)に弟子入りします。3年ほどスクールに通いました。一緒にセッションやジャズバンドをやる仲間も出来て、アマチュアとして、あちこちで演奏するようにもなりました。そんな中で仲間の一人が、一緒にニューヨークへ行かないかと誘ってくれたのです。音楽修行というよりも当初は、本場で最先端のジャズを聴いてみたいという気持ちが強かった。その誘惑に負けて、仕事を辞め、友人と二人で渡米しました。1992年のことです。
当時は観光ビザで入国すると、滞在期間は最大で6ヵ月。生真面目な友人は半年で帰国したのですが、僕はそのままニューヨークに居残ってしまった。いわゆる不法滞在というやつですね、もう時効だから言っちゃうけど(笑)。周囲にそういうミュージシャンもいっぱいいたし、現在の僕はグリーンカードも貰っていますしね。ニューヨークに残ることを決断したのは、あるテナーマンとの出会いでした。
ある日、休日にセントラルパークで練習していると、白人男性がすたすたと近づいてきて、「そんなフラジオレットじゃあ駄目だ。貸してみろ」と言って流暢にテナーを吹いてくれました。いやーぁ、凄かった。しばらく経って、またセントラルパークで彼を見かけたので、弟子入りをお願いしました。彼の名はロブ・シェップス(Robb Scheps)。日野皓正さん(トランペット)のバンドでツアーをやったり、レコーディングもしていました。彼にも3年間ほど教えてもらいました。あの頃に住んでいたアパートメントは、1階が自動車学校で、その地下が、閉校後の夜になるとサックスが吹き放題。上手くなりたいという気持ちが高揚していたためか毎晩、欠かさずに練習していました。アパートの地下室でメトロノームを前に、孤独な猛練習です。
もちろん、食べてゆかなければなりませんので、レストランの皿洗いのバイトとか、いろいろと働きました。その一方で、なんとかニューヨークの音楽シーンの片隅にでももぐり込みたいというか、わずかでも音楽で稼ぎたいという気持ちも高まりました。しかし、あの街の演奏レベルは猛烈に高い。ジャムセッションに出かけて行っても、簡単に相手になどしてくれません。デモテープを作ってジャズバーなどに持参したところで、受け取ってさえ貰えないこともしばしばでした。
そこで始めたのが、地下鉄の構内で吹くことです。小銭稼ぎにもなりますしね。地下鉄駅の構内で演奏するためには、もちろん、許可が必要なのですが、初めの頃はそんなことも知りませんでした。警察官が来ると、怒られないかとビクビクしたりもしましたが、不思議とストリートミュージシャンには寛大でした。ニューヨークってそういう街なのですよ。初めのうちは53丁目のセヴンスアーヴェニュー駅とか、ワールドトレーディングセンター駅とかで演奏していました。
そんな日々に転機が訪れたのは、例の「9.11」テロ事件でした。その頃は日本人観光客むけの旅行代理店に勤めていたのですが、事件で旅行客が激減したためクビになってしまった。それなら音楽で食べて行ってみようかと。まず手を付けたのは、MUNYのオーディションを受けること。
MUNY(Music Under New York)は公の認証機関で、あの当時の状況はまず300人くらいがデモテープで応募し、オーディションに呼ばれるの50~60人ほど。最終的に許可証を獲得できるのは10~20人(組)という厳しさでした。許可証をもらっても好き勝手に演奏できるわけではありません。スケジュールが決められていて、初めのうちは週に2、3回程度。何年か経ってから、週に3、4回のペースでやらせてもらえるようになりました。ペンステーションや、グランドセントラル駅など、指定された場所でのみ演奏していました。
スタート時には「Yasuyuki Takagi Group」という名称の4人組で始めました。でも、周囲の人たちから「YAZのBAND」、「YAZ BAND」と呼ばれるようになって、それが正式名称になってしまったという経緯です。ちなみにYAZというのは僕の呼び名で、ヤスユキという名前が英語では発音しにくく、いつの間にかヤズと呼ばれるようになっていました。
YAZ BANDはサックス、キーボード、ベース、ドラムスという4人編成のフュージョンバンドです。プロモーションのために録音をしてCDを作ったり、配信したりもしました。レコーディングはフュージョンのスタイルで、まずリズムセクションを録って、それから楽器を重ねてゆくという手法です。バンドのメンバーに宮本慎也さんというバークリー音楽院出身のドラマーがいまして、アレンジなどで随分と助けてもらいました。収録したのはオリジナル楽曲もありますが、ジェームズ・ブラウン、マーヴィン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダー、ボズ・スキャッグスのソウルフルなナンバーをアレンジしたものがアメリカでは人気です。
そうやって演奏していると、徐々にチップを投げ入れてくれる頻度も増して、なかにはウチで演ってみないかと誘いが来るようにもなった。ニューヨークに来て10年も経っていたのですね。
演奏する場所も当初は地下鉄、そしてライブバー、クラブと少しずつ拡がってくると、FMラジオ局やケーブルTVからも声が掛かるようになりました。プレイを始めたら人垣を作れる自信も出来た。リンカーンセンターの野外コンサート、ミントンズ・プレイハウス、アポロシアターと出演する小屋の規模も大きくなりました。韓国ツアーの敢行やアリゾナ州のジャズフェスティバルに出演したり、FOX5やCBSといったテレビ局の取材が入ったり。また日本では、『地球の歩き方~ニューヨーク』というガイドブックに掲載されたり、朝日新聞が紹介してもくれました。
YAZ BANDのアルバムは3枚つくって、2015年の『HORIZON』が最新になります。この頃になると、そろそろ帰国のことを意識するようになりました。日本ではストレートアヘッドなジャズも演奏するようにしようとの想いから、フォービートのスタンダードナンバーも収録しました。ライブ会場で販売しているCDや、オンラインストアの配信でお聴きいただければ嬉しいです。
26年間に及ぶニューヨーク生活を終えて帰国。縁があって札幌に移住したのが2019年2月10日でした。その一周年を記念して“D-Bop”Jazz ClubでYAZ BAND名義のフュージョンライブを開催させていただきます。もちろん、バンドのメンバーは札幌のミュージシャンたち。凄い音楽性をもったアーティスト揃いです。ぜひ足をお運びください。
――インタビューで語られている一周年記念ライブを聴き逃した音楽ファンには、2月16日に地下鉄東西線・南郷13丁目駅ちかくのMINTONS caféでリターンマッチが用意されている。こちらは高木靖之Quartet名義のライブで、ストレートアヘッドなJAZZライブ。D-BOPへ行かれたファンも、また別の魅力を味わえるライブになりそう。是非こちらもチェックを!
2020年2月10日(月)D-BOP
https://northern-knights.com/live/2020/01/06/d-bop-yaz-band-live-at-d-bop/
2020年2月16日(日)MINTONS café
https://northern-knights.com/live/2020/01/06/mintons-cafe-高木靖之-quartet-live/